在宅療養及び看取りについてのアレコレ(長文)
2019年の年末から腸閉塞と激しい下痢を繰り返して2000年7月に再発告知され、「胃癌の再発は予後が悪く、半年か一年か、もっと早い場合も」と言われて2年と2か月、「もう緩和治療しかない」と言われても、どいのさんは身辺整理とか終活とかいったことを一切しない人だった。そして、「もし自分がいなくなったら」という話を私たちはただの一度もしなかった。彼が言わないことは私も聞かない。もしもの時はあとで困ればいいだけのことだと、予想した通りに混迷した各種雑務も随分片付いてきた。
芝居にまつわる混迷はこれから2年、関わってくれる人達とともに右往左往するしかない。
わたしは改めて感嘆(?)するのだけれど、この3年近い、いつ逝くかわからない闘病の日々の中で、ひとり残る私を心配するような言葉を、彼は一度も口にしなかった。一度も。
それを言い出したらキリがないし、結局どうしようもないのだから、私たちのセンスでは確かに口にするべきでない。でも、つい出ちゃうでしょ?言っちゃうでしょ?私ならば。
本当に凄いなって思ってる。そしてそこに同じセンスと強い他者性を感じて恋しくなる。
私はというと、彼を亡くした直後も「稽古した芝居があるから、目標があるから、それを実現させたいと思う人たちが仲間になってくれるから、たぶん大丈夫」と思いつつ、しかし、35年間、私たちはあまりにも一緒に生きて日々暮らしてきたので、もうしばらくしないと、自分が、生きようと思えるのかどうか、何かしようと思えるのかどうか、ほんとのところわからんなあーとも思っていた。
2か月たった今、私はツアーの実現に向けて必要なことを、公私ともに少しずつ進めていこうとしており、それは、どいのさんと積み重ねてきた年月の結果であり、気にかけ応援してくれる人たちのおかげなのだけれど、もうひとつ、在宅で最期を看取ったということも、案外大きいかもしれないと、最近感じているので、超長くなるけれど、在宅での療養や看取りについて自分の体験を書いておきます。
それは本当にいたたまれないつらい時間でもあったのだけれど、文字通り命がけのあの生々しい時間を、拒否できないというか、受け入れて抱きしめて進むほかないために、私は早々に前を向くのではないか。もしも、経口食が不可となってからずっと入院して亡くなったとしたら、私はまだ当分受け入れられなかったのではないかと今感じている。
コロナも5月からはインフル扱いになるらしいけれど、病院の面会規制がどうなっていくのか。電話やスマホのビデオチャットに随分助けられたとはいえ、それができるのは本人にその元気がある時で、以前なら枕元にずっといられたものが、コロナ以降はつらい時ほど音信普通だった。去年一時面会が緩和されたときは、プラ板越しに15分の面会。15分では会うこと話すことしかできない。そうではなくて、何もできないからせめて一緒にいたいのだけれどそれが叶わなかった。
在宅療養とか看取りとかいっても、いつ何をどうすればいいのか、どういう準備が必要なのか、医療従事者だった私ですらよくわからず、しかも、本人とは相談しにくく、けっこう悩んだ。再発告知があり、いつ何があるかわからないと言われた時、私たちはまだ上場高原におり、まだコロナ前だったけれど、いつだって少しでも早く退院して家にいたがるのは間違いない。「ここで訪問診療って可能??」と、おんおん泣きながらも、在宅でご主人を看取った知人やケアマネさんに話を聞きにいった。上場でも医師やナースやヘルパーの訪問は可能だけれど、緊急対応は不明、急変時訪問ナースに連絡したけど訪問を断られたとの話も聞いた。そして何より上場は、豪雨や雪で交通が一時遮断されることがあるので、2022年の春に稽古場と住居を下界に移したときは、かなりほっとした。相談したケアマネさんは「介護申請も早晩必要で、一度ご本人にお会いしましょうか」と言ってくださったけれど、いやいやとんでもない、本人に終末意識は全く無く、ツラい抗がん剤治療に耐えて克服しようとしているのだし、私にしても何とか薬が効いてほしい、その治療を支えることが中心なのでその時はお断りした。
結局、担当のケアマネさんを決めて介護申請の手続きをしたのは、2022年9月に「もう抗がん剤はやりつくして緩和治療しかない」と言われ、愛知の春日井に引っ越して11月に腸閉塞で入院し「もう口から固形物は入れられない。必要な栄養は24時間点滴からでないと無理」と言われた時だった。腸閉塞症状自体は落ちついて、病棟で点滴しているだけになっていた。
まず、一日も早く退院したがっていたので、入院していた市立病院内の退院支援の窓口に相談にいく(病棟は担当者が日替わりで、誰に相談したらいいかわからなかった)
「主治医にまず相談してから」とか「在宅医や訪問看護を決めるのに時間がかかる」とか、色々言われるが、とにかく会う度、会う人ごとに、「残された時間が少ないので一日でも早く退院させてほしい。私たちの一日と彼の一日は全然重さがちがうのだから」と言いつのる。
勿論私たちはその時点でも諦めてはいなかったし、温熱療法に力をいれている癌治療の病院に予約もして希望をもっていたけれど、動ける一日一日が貴重であることも切実だった。退院支援担当をせかしつつ、ケアマネを決め、市役所に行き、介護申請の手続き。介護保険適用年齢ではないが、末期がんは対象だった。介護度を決めるための本人との面接が必要で、病棟で面接する日程調整をした。
本人は介護支援対象者になることが結構ショックだったようだけど、ケアマネさんを通したほうが一人でやるより手続きもモノの調達も断然早く、「使える制度はどんどん使うぞ」と宣言して、この時はとっととすすめた。訪問介護は使わなかったけれど、各種役所への書類手続き(申請後も書類いっぱい)の代行、レンタルの電動ベット(要介護認定があり月額1500円前後)や点滴台の調達、意識を失くしてからの褥瘡予防のためのエアマットの調達(朝一でケアマネさんに連絡して午前中にはモノが運び込まれ、訪問ナースとも時間調整されて複数でマット交換した)などとても助かった。また、亡くなった朝、訪問ナースと2人でエンゼルケアをしたのだけれど、そのあとはもう遺体を冷やす必要もあるし葬儀社を決めねばならず、退院後好調だっただけに何のアテもなくて、ケアマネさんが家族葬の業者をいくつかメールしてくれたのもありがたかった。
福祉用具業者と契約打ち合わせ、介護ベットが家に運び込まれ、数日後退院支援のナースから呼び出しがあって、「本人は家での療養を希望しているが、現在の点滴の管理、今後予想される身体介護など、あなたはそれを担うつもりがあるか」を確認される。
それにOKして翌日から、点滴ポートの穿刺部の管理、点滴のルート充填や交換、滴下管理マシーンの講習、散歩や入浴時に一時点滴を止めて外すための抗凝固剤によるロックの手順の講習などが始まる。20年近く前に経験のあることが多かったものの、在宅用マシーンは見たこともなく、専用ルートも初めて、点滴ポートも初めてで、それなりに緊張だった。(私の場合は私がやるほうが彼の意向に添って自由度があがるので家でもやっていたが、マシーン管理以外は、頼めば訪問ナースが何でもやってくれる。そして、マシーンは大変優れモノでありがたかった)
担当訪問医と訪問ナースチームが決まり、私の講習も終わって退院。その日のうちに訪問ドクターが来て診察や契約。訪問のナースチームはドクターとは別団体で当初は毎日、途中からは週3で来ていた。一度入浴後にポートの穿刺部が抜けかけてる?となって、夜11時過ぎに電話したけれどすぐ来てくれたし、訪問ドクター・ナースとも細かな不安や疑問も相談できて、その安心感は忙しくて声をかけにくい病院とは雲泥の差だった。
出水から春日井に移った理由は大きく4つあり、@お義母さんのサポートが必要になったこと、A春日井から車で通える範囲に温熱に力を入れている癌治療病院があったこと、B都市部のほうが訪問医や訪問看護が充実していると私が考えたこと(特に命綱となる点滴ボートについて総合病院内でさえ不慣れで、在宅でどうなるのか激しく不安だった)、C部屋の日当たりが春日井のほうが圧倒的によかったこと(出水の稽古場は2階は日当たり抜群だけど2階で療養は無理で、1階は芝居の稽古にはいいけど窓が少ない)。Bについては点滴ポートにも慣れており時間を問わず、本人が少しでも自由に動けるようサポートしていただいた。介護は地方のレベルが高いと感じるけれど、医療は人手不足もあるだろし、ニーズの量もあるだろうし、医療技術の拡散速度もあるだろうし、かなり地域格差があると感じた。
在宅診療医の訪問と訪問看護、及び診察時処方箋をだされて調剤薬局に取りに行く薬は、医療保険(私たちは国保)の管轄になり、交通費や休日・時間外手当・エンゼルケアなど保険対象外の費用もあるけれど、基本は高額療養上限負担額を払うことになる。(1か月ごとに非課税者は35400円、非課税ではないが年収370万以下の人は57600円、370万〜770万の人は80100円+αとか調べるとわかる)。しかし、手続きすれば後々戻されるものの、麻薬系の痛み止めがガンガン入ってくるので、調剤薬局で払うお金は毎週2万近かった。また、加入していたがん保険は入院保障のみだったので、入院していれば一日5000円給付されるけど、通院や在宅では適応されず、余談だけど私のがん保険に通院特約を加えた。
Cの日当たりは本当にありがたかった。毎日のこと、刻一刻のことだし、私がしてあげられることの何倍も、思うように動けない人間にとっての日光と外に広がる風景は大切だと思っている。
在宅療養になった11月は異例の暖かさと晴れがずっと続いて、一緒にたくさん散歩した。本当にきれいな秋だった。そして彼が意識を失くした日から雨になった。
意識のあった最後の日、昼間は普段以上に好調で、一人で知人を駅まで迎えに行ってお茶をして、午後は私と「四畳半神話大系」を見たり本を読んだり、漉したスープを喜んで飲んで、お風呂に入っていつも通りマッサージをしながらたわいない話をして就寝、夜11時を過ぎて腹痛に苦しみだした。痛止めのテープも舌下錠も効かず、足を温めたり腸を動かすツボを押したりするうちにお腹は増々張って吐くようになり、在宅医が来て痛止めの注射をするが痛みが止まらない。これまでも何度も何度もとりあえず必要なものを車に放り込んで、苦しむ彼を乗せて病院に走ってきたけれど、今回はそれすらできない。病院に行けばコロナの検査から始まって血液・画像各種検査、夜間は特に少しずつしか進まず、結果がでないと処置もできず、担当科の医師がいない時は電話して医師が病院に到着するのを待ち、短くて3時間、長い時は病院に着いてから入院まで5時間かかったこともある。それに耐えられないだろうと本人も私にも思え、かりに耐えても、もう閉塞を緩和解除する薬がない。病院に行けばそのままそこで死ぬことになるだろうと彼は思ったと思う。痛み出して3時間、ドクターが胃までチューブを入れて吸引してみようと物品を取りに戻っている間、もうだめかもということをこれまで一度も言わなかった人が「これで終わりかもしれないから言っとくよ。ほんとうにありがとう。さっちゃんがいるんだから最高だ」と苦しみ悶えながら言ってくれたけど、まだまだやる気だったのだから最高なわけはなく、その口惜しさ、死ぬ以外に痛みを解除できないという絶望、それを感じる余裕もないだろう刻々の痛みを、かける言葉もなく、できることもなく、ただ見ているしかなかった。そのやり場のないいたたまれない時間の長さ。ドクターが戻って吸引するが何も引けず、寝ていることも座っていることもできない彼をベットに上がって後から抱いている私に「ここで終わりにしていいか?」と聞き、ドクターに自分で頼み、「あとは全部任せたからな。チクショー痛いなあ」と言って、強力な注射で意識を失くし1日半眠って逝った。新太と交代で付き添い、「あれ?呼吸がおかしい?」と思って新太を呼んで、それが最後の呼吸だった。しばらくドクターを呼ばずに悲しんで、ドクターやナースに連絡してからは処置に書類に連絡に葬儀の手配に怒涛。でも幸いなことに火葬場が混んでおり、遺体はその後も一日半家に居て、近しい知人が家に来たり、落ち着いて悲しんだり話したりする時間があってありがたかった。
在宅で看取るとたぶん病院で看取るよりも、自分の前にたくさんの自分の選択「もしもあの時、別の選択をしていたら・・」が積みあがる。あの時に抗がん剤をしていたら、あの時アレをもっと強く勧めれば、私がアレを調べていれば、アレを止めていれば、アレを食べさせなければ、アレをスープにいれなければ・・、大きなことから、日々のささいなことまで、本当にいっぱい。それは後悔というのともちょっと違う。ひとつの選択がつぎの偶然を生んでまた沢山の選択を繰り返して、みんなたったひとつの人生、取り替えられない今を生きているのだし、もしもを言っても意味がないのはわかってる。いつだって最良と思って選んできたはずなのだ。彼のより良い一日を目指して上場から高尾野へ、さらに一昨年亡くなった義父の荷物でいっぱいだった春日井の実家の2Fへ。この一年とにかくモノを分別し数えきれないゴミに出して、新しい生活環境を作る日々だった。そしてその間に3か月の稽古合宿があり沢山悩んで沢山笑いあった。がむしゃらで頼りになるのも私、目の前の課題や喜びに偏り過ぎて頼りにならないのも私。それが自分なのだからどうしようもない。そしてどう納得しようと私の心に沢山のもしもが積みあがっていることに変わりはなく、当分はそれと一緒に生きていく以外しかたがない。
彼がいなくなった場合のことを私たちは一切話さなかったから、彼が何をどうして欲しいのか私は知らない。でも彼は自分が死んだ後のことに注文をつける人じゃない。ただ、「すごく嫌なこと」というのはたぶんあって、でもそういうことは、どのみちさっちゃんはしないと信じてくれたんだろうと思う。だから私は、自分ができること、自分がしたいことを、していけばいいのだろう。
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